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通信制・福井・京都といえば京都美山高校地歴科ブログ5

京都美山高校地歴科担当教員のブログです

北陸農業の救世主と呼ばれたのが農林1号

話は戦前まで遡る。
今では日本を代表する水田地帯である新潟県など北陸地方は、全水田の6割以上を湿田が占め、裏作物の作付割合が極めて少なく、農家の経営の主体は、稲作に置かれていた。しかし、湿田での稲作は不安定であり、また刈取り期に雨天が多く、乾燥が不十分だったため、軟質米として、取引市場でたえず不利な立場に置かれていたのである。
それを救い、北陸農業の救世主と呼ばれたのが農林1号という品種のお米。湿田地帯向きの早生・多収・良質なお米で、農家経営に著しく貢献したといわれている。当時は、コシヒカリのような存在だったのだ。
農林1号については京都府亀岡市出身の有名な並河氏の活躍が有名である。
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湿田とは常に湛水している水田のことです

低湿な平野部で常に湛水している水田のことです。一般には一毛作で,裏作を行うとすれば高畝 (たかうね) の必要がある。酸素の供給が十分ではないので,作物の生育には悪く,農作業も困難,機械化もむずかしい。日本では暗渠排水などの土地改良によって乾田化が進んでいる。特に排水が不良で,常時足,腰まで没してしまう水田を深田,沼田と呼んでいる。 (→乾田 )
福井県は代表的な湿田地帯で今でも覚えているが社会科の教科書に腰まで泥に深々とはまりながら田植えをしている農家の女性の写真が載ていたのを覚えています
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列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災

1972年11月6日、北陸トンネルを通過中であった急行「きたぐに」の食堂車で火災が発生し、30名の犠牲者を出した。この事故をきっかけに長大トンネル区間及び列車の空調、電源設備の安全性改善が進んだと言われている(蒸気機関車時代は、蒸気そのものを機関車から客車に直接送ることができた)。この事故の前の1969年12月にも北陸トンネルを通過中の寝台特急「日本海」の電源車から出火する事故があったが、このときは運転士の判断で列車をトンネルから脱出させて消火したため死者は出なかった(詳細は北陸トンネル火災事故も参照)。
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NHKの「プロジェクトX」にて「列車炎上 救出せよ北陸トンネル火災」が放送された
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北陸トンネル開通前の北陸本線

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敦賀と今庄の間にはの鉢伏山(海抜 762 m)がそびえ、その鞍部である木ノ芽峠(海抜 628 m)は、古くから北陸道の隘路であった。
北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀 - 今庄間(1896年開通)は、木ノ芽峠を避け、敦賀市の海岸部に近い杉津駅を経由する山中峠ルートを採っていた。だがこの区間は、海岸の山麓を縫いながら4箇所のスイッチバックを擁して25‰の急勾配を上り下りする厳しい条件の単線区間であった。途中には3箇所の駅、3箇所の信号場、12箇所のトンネルも存在し、列車の行き違いにも時間を要した。眺望こそ優れた区間であったが、速度や輸送力、列車本数(急勾配の単線区間であるゆえ、列車本数に限りがあった)の面で、木ノ本 - 敦賀間の旧線区間と同じく、重要幹線である北陸本線にとってのボトルネックとなっていた。 勾配の厳しさのみならず、地盤の脆弱さによるがけ崩れ、冬期には雪国特有の雪害にも悩まされていた。
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北陸トンネルは1961年7月に貫通し、翌1962年3月に完成

1957年に着工した。敦賀・今庄の両坑口のほか、中間2箇所からも立坑・斜坑を掘るという突貫工事で掘削が進められた。世界的にも注目され日本国外からの視察団もよく訪れた。期間中、新保駅のスイッチバック今庄方引き込み線が延長されて葉原斜坑への資材運搬拠点とされた。北陸トンネルのルートに当たる敦賀市葉原には作業員(とその家族)が多く住み、1959年の葉原小学校には229人もの児童が在籍した。断層や出水に悩まされたが1961年7月に貫通し、翌1962年3月に完成した。以後、整備を重ね6月9日には旧線から線路を付け替え暫定運行を開始し、6月のダイヤ改正に合わせ10日より正式供用を開始した。6月10日の開通祝賀式典に併せ、殉職者慰霊祭が敦賀ポータル側で行われた。当初から交流 20,000 Vで電化されていた。今庄止まりの通勤列車はすべて敦賀まで延長され、今庄敦賀間の所要時間は1時間以上の短縮となった。
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